最近、あるひとつの“終わり”を迎えた。
その景色を見て湧き上がってきたのは「おめでとう」という、初めて自分に向けられた言葉だった。



たとえば展示が終わったあとに何かそれについて振り返って記すというのは殆どやってこなかった。それをしようとすると何だか不自然に感じられて、無理矢理符号を打つかのように思えたからだ。
だけど今、ようやく書き記すことができるかもしれない。そう思ったから、自分のためにも書いてみようと思う。そしてあなたに読んでもらおうと思う。

あの展示は、今までで最も自分自身だった。これまでも自分だったけど、何かその最たる形となって、今、居る場所でそれが叶った。それが大きな美術館とか、人のたくさん来る場所とか、有名無名とか、そういうものは全く関係ないということは既にわかっていた。大切な場所で、そこにタイミングが合った。


もっとも難解だっただろうし、もっとも素直だったと思う。とても親切だけれど、ものすごく危険だったかもしれない。そのものに全てを詰め込んだ。意図と無意識が渾然一体となった「今」だった。どうか正直でありますように、と胸の中で何度も唱えた。互いに感性を極限まで滑り込ませて交感する時間。海に石を放り投げると広がる波紋のような反応を味わった。どこまでも自分だったからこそ受け取ることのできる幸福だと思った。そして、最後まで委ねて今を信じきることができたということが何よりの祝福だったのだと思う。


過去を捉え直し、今を知る。わからないことは、わからないままにしておく。「知りたい」という人間の欲求は物事を加速させ、駆り立てるけれど、そこにただ在ることだってそれと同じぐらいはやいことなのではないか。そんなことを展示を通して、日常を通して、知っていったような気がする。特別だけれど、特別ではない時間。いつだって双方の世界を行き来できるのだから、どのようにあったって、「そう」だと思えばそうなのだ。 誰かのために願いを込める、あの時の会話を思い出す、忘れられないもの、通り過ぎて行ったもの。暴力的で、やさしさに満ちている。意味はいくらでも書き換えることが出来て、今呼び寄せたいものを掌のうえに乗せれば良いんじゃないだろうか。そういうことを考えた。

ひとつが生まれると、必ずもうひとつが生まれる。それは魂のことだったり、意識のことだったり、いつか出会う何かだったりする。力を込めれば、弛緩する。肯定があれば、否定がある。闇があれば光がある。重くて軽くて、濡れていて乾いている。
それはとても心地の良いことで、追い求めるからこそ行き着く場所なのかもしれない。やってみないと「本当に」わからない。誰かの口から出る言葉が一体誰の言葉なのか、そこに書いてある文字はいつ書いたのか、どうしてここに来たのか、そういうことの繰り返しによってひとつずつドアが開く感覚をおぼえていく。


わたしは「言葉になる前の景色」に触れていたいと思う。それは私にとっての親友みたいなものだから、何かを知りたい時や伝えたい時はいちばん力を貸してくれる。 そして言葉にすることへの望みがある。それはまるで海の深いところからどんどん足が着くようになって、やがて岸にたどり着いたようなもので、「伝えたい」という意思の介入によって情熱と優しさをもって構築されていく。熱がそのひとのからだを駆け巡って、器をなぞって、変性されて、新しくうまれかわって放出されていく。感じること。伝えること。遺すこと。そんなことができる人間の可能性を信じているから、それは言葉でもかたちでも(もはや同じことだと思うけれど)届けられていくものだと思っている。

だからこれからもきっと続けていくのだろうし、大切なものであることに変わりはない。わたしはわたしに向き合い、表現するけれど、結果的にそれが誰かの希望になってくれたらとても嬉しいとも思っている。
それはこの10年ぐらいを経てようやくわかったことのひとつかもしれない。しかし「わかった」とは、きっと詳細を描写することはできないだろう。もうちゃんとその身体におさめられて、自然と滲むものなんだと思う。
だから「ただ在る」ということをこわがらないで居たい。




ここまで“終わり”について記してみたけれど(記してはいないけれど)、つまりそれはここにひとつの点が出来た、ということなんだと思う。これしかないものが、ここにあったんだよ、ということ。
そうしてまたはじまっていくのだろうなと感じている。終わりはいつも希望に満ちているのかもしれない。これからも楽しみたいし、してみたいこともきっと出てくるんだろう。
だからここまで来た自分のことを抱きしめる代わりに、綴った。そして、こういうふうに書けて良かった、と思う。
なぜなら“今”を感じて、しあわせを知るから。


ありがとうございました。




2021年12月14日

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