6/12/2022 生き物は苦痛を感じると身を捩る
結局世界は、自分の見たいものが見れるようになっていて、感情もそこに読み取るものもすべて、自分の思い通りの出来事が起こっているだけだと思う。
だから目の前の相手がほんとうは実体を帯びた虚像なのかもしれないし、真実というまぼろしなのかもしれない。
いつだって箱の中に入っているものは何かを、自分自身が知っている。それはわたしで、あなたでもあるということ。
でもその世界どうしが偶然触れ合っているなら、感動していたいし、よろこんでいたい。
匂いを知覚しながら話をしていること、筆跡をおぼえること、今頃は媒体を通じても音声が鮮明だし、なんとなくお腹がすいたり、タイヤ交換しに行くことだってそう。
すばらしい通信をわたしたちは行っているわけだ。
思い出を永遠にしようとすると死を近づけるけれど、記憶のなかを生きることはできる。タイムラグはあるようでないし、ここへあらゆるものが召喚可能だということを知っている。自覚すればするほど火が燃えて、水が流れる。樹々は樹立しているけれど土の中の同じ養分を吸収している。風にも吹かれている。葉が染まる時期も、蕾が灯る時期もお互いを見ればわかる。
血の繋がりがあったとしても、別々のものに見える。最近出会ったとしても、よく似ている。
言葉の後ろ側にあるものをどのように読み取るかは勝手になされるものだから、めくじらを立てる必要はない。もうすぐ引っ越そうと思っている家が心地いい生活空間になろうと努力している。永遠のものを見せられたとしても、いつかそれは永遠ではなくなる。それがへりを掴み、顔をあげた先に見えるものなんだということは、わかっている。